高勝寺縁起

当山 、岩船山大智院高勝寺と称し、今から650年ほど前応安元年(西暦1368年。南朝長慶天皇の御代、この年足利義満征夷大将軍となる)学僧鎮海和尚の開基であります。

京都御室の仁和寺の直末の中本寺で、戦後本末関係が解かれるまで近隣に20数ヶ寺の末寺を擁し、その名を馳せた古刹でありました。
仁和寺は法皇門跡寺院であったので当山も皇室から菊の御紋章使用の勅許がありました。終戦後老朽化した本堂を新築するまで内陣の水引(柱の正れ幕)に十六弁の菊の紋章が大きく縫いとられているなど、各所にしるされていました。現在地蔵堂の厨子や扉にその面影をとどめています。
明治維新の廃仏棄釈、戦後の本末解体、農地解放などの法難を乗り切り、現在は、平安時代の文学や観音信仰で有名な牡丹の寺、奈良県大和長谷寺を本山と仰ぐ真言宗豊山派に属しています。
本尊様は、胎蔵界大日如来様で、真言宗の根本の仏様、仏教の究極の仏様です。大日如来様には、胎蔵界と金剛界の二つあり、胎蔵界の大日如来様は、慈悲をつかさどる仏様であります。この他、釈迦涅槃像、聖徳太子像、弘法大師、興教大師(以上本堂安置)岩船地蔵尊、鶏鳴観世音菩薩、不動明王(以上地蔵堂安置)がまつられています。また本堂には、極楽絵図、地獄絵図、格天井には日本画の花鳥図が描かれています。
境内には、カヤの大木などの古木がたくさんあり、牡丹や石楠花、紫陽花などの花が咲き乱れる姿は、さながらこの世の浄土を思わせます。

新編武蔵風土記稿による高勝寺の縁起

(坂浜村)高勝寺

境内凡五町、村の巽の方にあり。その邊を高勝寺台と呼ぶ。新義真言宗、京仁和寺末、岩船山大智院と号す。開山鎮海応安元年に起立し、同八年二月廿一日寂せり。本堂十一間に八間西に向へり。本尊大日長四尺ばかりの坐像なり。門両柱の間二間あり。

寺宝 

心経一部
弘法大師の筆。是は今の名主郡司が家に持傳へしを、寛文九年当寺へ寄附せしと云。
六字名号一幅。同筆。
観音堂。
鐘楼門。これは観音堂の門にて、則堂の正面にあり。五間に三間、鐘に銘文もあれども近き世のものなれば略せり。前に石階三十四級あり。
地蔵堂。本堂に向て左にあり。五間に四間西向なり。地蔵の像長八寸、弘法大師の作なりと云。これを岩船地蔵と号して日本三体の霊佛なりといひ傳ふ。前立の像あり。大さ本尊と同。
古碑。本堂の右の方墓所の中にあり。応永二十一年六月一日とあり。

新編武蔵風土記稿より

稲城市掲示による高勝寺の縁起

真言宗で豊山派に属し、新編武蔵風土記稿によると、京都仁和寺の末寺であり、応安元年(1368)に創建されたことが記されている。
周辺地域に19の末寺をもっていた歴史ある寺院で、所有する文化財も多い。
東京都指定文化財の聖観音菩薩像は、現在は地蔵堂に安置されているが、もとは高勝寺の末寺で、廃寺となった妙福寺に安置されていたものである。
ケヤキの一木造りで、像高さ153㎝。藤原時代末期の作と判断されているが作者は明らかでない。
カヤの木は本堂の裏側にあり、雌株で高さ約25m、目通り幹囲6mである。都内でも最大級のカヤの大木で、稲城市唯一の天然記念物の指定文化財である。

(稲城市掲示より)