この観音像は聖観世音菩薩で江戸時代末までは高勝寺の末寺の妙福寺の本尊であった。
ケヤキの一木造りで身の丈1メートル50センチ、行基菩薩の作と伝えられていますが、作風からみて平安末期の作である。
妙福寺はその後廃寺となり、観音像は当山の地蔵堂の脇壇に移される。
昭和36年1月東京都の重要文化財に指定され、38年京都の元国宝修理所長榊木義春氏の許で修理された。
観音像の左手肘部がはぎつけられている他は全くの一木造り、肉身および天冠台には後補の漆箔が残り、他は現在素地である。
霊験については江戸時代の伝説となって今日まで語り継がれ、観音像は通称「鶏鳴観世音菩薩」と呼ばれている。

「真言 オン アロリキャ ソワカ」

※秘仏につき通常非公開となっております。(開帳は10月17日)

この観世音菩薩様の霊験は、江戸時代の伝説となって今日まで語り継がれています。

民話《坂浜の一番鶏》

あちこち傷みがひどくなった観音様を檀徒一同相談の上、浅草の塗師のところへ修理に出した。
受取に行く前日、檀徒衆は一番鶏を合図に出発することに決めた。
どうしたわけかその日に限り、午前二時頃必ず鳴く一番鶏が一時(いっとき)早く午前零時頃一斉に鳴き始めたのである。
それとばかり檀徒衆はとび起きて早立ちし、朝の内に浅草の塗師の家に到着、仕上がった観音様を受け取り帰路についた。
両国橋にきた頃、何処か火事で半鐘がけたたましい。
駆けて行くものに訪ねてみるとどうやらあの塗師の家らしい。
檀徒衆は、観音様は火事を予知され火の難を逃れようと一時早く一番鶏を鳴かせて我々を早立ちさせたに違いないと合点がいった。
それ以来「除災招福」の観音様として檀徒や近隣の人々の信仰がますます深まった。